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感想文
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趣旨
HARRY POTTER and the Philosopher's Stone
日本の没落
趣旨
読書感想文、これほど難しい宿題は僕にとってはない。
書き方がわからないのだ。
あらすじを書いてはいけない。とはよく言われるが、
だったら何を書けば言いというのだ。
教師は軽々しく「読書感想文を原稿用紙3枚程度書いて来なさい。」というが、
あらすじを書かないという点を守ったとしても、書くことがないのである。
私が高校1年生のときに書いた三四郎の感想文はひどかった。
書き方がわからなかっただけにまじめに書いたつもりもないが、とても高校生が書いたものとは思えない。
内容は次のようなものである。
三四郎を呼んでみたが何が面白いのかわからなかった。
物語にもめり込むということもなくただ淡々と読み進んでいった。
物語それ自体よりも三四郎と他の登場人物の話のほうがまだ面白かった。
例えば***ページの三四郎と**さんの会話は凄かったと思うし、
***ページの***の発言には非常に興味をそそられた。
……(原稿用紙を埋めるための例示が続く)
でも、結局三四郎という物語には興味を惹かれなかった。
ひどい内容である。
ひどすぎる内容である。
全体のあらすじを書かない変わりに本を読んだ事を照明するように、
随所に内容がかかれている。
そして、すべてにたいしてに、「おもしろかった」「おもしろくなかった」「凄かった」「興味をそそられた」と
感想を書いた。私にとっては感想文とは感動文であった。
しかし言い訳をさせてもらえば、感想文の書き方を習った事などないのだ。
小論文ならいくらでも書ける。
しかし感想文とはなんなのだ。
当時の私に言わせてもらえば感想文は感想を書くだけなのである。
「良かった。」
だけでいいのである。
だからこそ感動文になってしまったのであろう。
感想とは大辞林第二版にとると
あることについて、感じたり思ったりしたこと。所感。感懐
だそうである。
思ったことを書けば良いのであった。
ということは論文でもいいのであった。
今になって反省する。論文で良いのかと。
本読みのHP
でもあるように、本の内容は無視してもいいのである。
三四郎であったら、三四郎の名前についてだけ思ったことを書いてもいいのである。
実に簡単ではないか
昔トラウマであった感想文を克服するために、
無駄に感想文を書いていこうと思う。
一ページも読まないで
HARRY POTTER and the Philosopher's Stone
この文章はDursley夫婦の説明から始まる。
普通なのである。通常から始まるのである。
小説の中には異常がある。もちろん異常がない小説もあるだろうが、
周知のとおりハリーポッターには異常がある。
異常な事柄がある物語は通常から始まるのである。
このことに今回考えさせられた。
世界観が既に異常である場合は、その世界観からかならなければならないであろう。
北斗の拳であったら、時は19XX年世界は核の炎で包まれた事をまず説明する。
漫画ではなく小説の場合であるならば世界観の説明は欠かせないであろう。
しかし、世界観が通常である場合はその世界観を説明する必要はあるのであろうか?
日常からしか非日常を考えられないのかどうかは疑問である。
始まりが普通である物は数えきれない。
代表的昔話の桃太郎でもそうであろう。
いきなり桃太郎の主観からはじまることはない。
「私は疑問に思っていた。何故私の名前を桃太郎なのであろうか。
別に普通といえば普通かもしれない。お祖父さんが桃が好きだっただけかもしれない。
桃のようなほほをした子供だったのかもしれない。しかし、私の年齢を考えると
お爺さんとお婆さんの実の子供とは考えづらいし、養子だとしたら、捨て子だとしたら、
私の桃太郎という名前には何か私の出生に関わる何かが隠されているのかもしれない。
来年には元服なので意を決してあ婆さんに聞くことにした。
「私の名前は、なぜ桃太郎なのでしょう。私の出生に関係があるのでしょうか。」
お婆さんは重い口を開く……」
といった話ではない。もちろん桃から生まれたというときに自我がないのだから
非日常から話が始まるのは難しいだろうが。
どの昔話をとっても異常から始まる事はない。
「昔々あるところにお爺さんとお婆さんが云々…」
日常からしか始まらないのである。
ハリーポッターでもそうだ。
異世界、異なる価値観をもった物が、日常を外から眺める視点のものは数少ない。
西洋、東洋、異なる文化であるにもかかわらずこれは変わらない。
単一の視点、これは人類に共通する癖のようなものであろうか。
単一の視点という人類の癖、これを治す事なしにこれからの日本は上手く回っていかないと考えられる。
相手の視点に立って考えなければイデオロギーの対立は延々と続く。
日常的世界と異世界が混在する小説という場で、
もし、異世界から見た日常世界という側面を出していくことが出来たら、
人間はもっと成長するであろう。
小説の中にある常識が世界の常識であり、
それを崩す事がこれから必要であり、その有効な手段もまた小説なのではないかと思われる。
あとがき
どうなのだろうか。英文で読んだものではじめの1行目の意味もわからなかった。
ハリーのここが羨ましかった。とか、ハリーのこの発言がかっこよかった。とかよりはましかと思う。
かなり桃太郎の話が長くなってしまったが誰に提出するわけでもないしいいとしよう。
日本の没落
日本の没落という本はバブルに関するところから始まる。
私は1980年生まれでありバブルのときはまだ子供であるから、
土地に異常な高値がついたときの社会全体の精神状態を知るすべは無い。
あとからどんなにえらい人間がどんなに高尚な論理で説明したとしても、
私はバブルというものが理解できないであろう。
バブルの崩壊という歴史的事実が日本の経済にとって単純に間違いであってと言い切れたとしても
何故その間違いが起こったのかを論じられてそれを理解したとしても、
そうすれば間違いが起こらなかったのかはわからない。
同じ間違いを引き起こさなかったとしても、違う間違いが起こるかもしれないし、
同じような間違いが起こるのかもしれない。
バブルというものを経験してない自分がバブルを理解するのは不可能に近い。
そしてバブルと切り放させないのが土地である。
この本の冒頭で、「日本人のさがには、一つの抜きが無い執着があるように思われる」とかかれている。
それは土地に対する執着なのであるが、その執着から開放されるということは
バブルを理解するよりも数倍難しい事であるだろうし、
土地への執着が日本のアキレス腱であるだろう。
始まりから重い言葉を投げかけてくれる本である。
土地に関する問題で日本の歴史上最高の偉人は織田信長であろう。
土地が収入源であり土地が褒美であった時代に茶器という新たな価値を示したのが彼である。
もちろんそれで完全に日本人が土地から開放されたわけではない。
ただ、家臣への褒美を全て土地でやっていたらすぐに土地が無くなる。
それがわかっていたのが信長であり、それを解決したのも信長である。
現在、土地が全ての収入源とも限らないし、少ない土地で大きな利益をあげる事もできる。
その意味で戦国時代よりもずいぶん土地から開放されているかもしれないが、
人口密度の高さ、ドーナッツ化現象、都市部の土地の価格などは世界的に見て異常ではないだろうか。
土地からの開放、その答えがネットの方向にあるのか、
それとも世界政府といって国からの開放という方向にあるのか、当然見当もつかないが、
土地からの開放は日本にとって、究極の問題ではないだろうか。
この問題を政治云々よりも何よりも先に扱ったこの本に敬意を表したい。
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